LIVゴルフが出現した理由
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事の発端は、「民主主義 思想・制度」
現在、日本をはじめ、米国、欧州で、さも当然のごとく掲げられてきた、「民主主義」
しかし、同時に民主国に設定されてきたのは「資本主義制度」、
この競争主義(リベラル)の思想に、本来は相反するはずの護送船団的な民主主義、
競争主義であれば、なぜ弱者を救済する思想、制度が主張されるのか?
昨今、力を得た、あるいは力を保持する権力者が、別の意味で闘争と逃走を実践、教授している。
要は、今の現状思想に嫌気がさして、独立するといった動きだ。
「民主制への闘争と逃走」が原因?
このような動きは、国、市政に留まらず、民衆が息づいたあらゆる分野で見受けられる。
その1つの例が、ゴルフスポーツだ。
ゴルフという競技は、約700年の歴史を持ち、
その歴史の中で、あらゆるプレイヤーが結果を残し、支持されてきた。
しかし、国のように歴史を重ねれば重ねるほど、
人々の関心は、細分化されていき、わずか半世紀足らずの世代別の抗争も勃発されやすくなるのは世の常だ。
今のゴルフ界も、1つの協会、ツアーにおいての「ポジション取り・座席争い」が継続されている。
要因はどこにあるのか?
思う試合で成果が残せたプレイヤーは名誉を得て、
永続的に名を掲げられるだけに、それに対する執着は、凄いものである。
しかし、それらの反復行為には、いずれ「疑念を持つ人間」を生み出すことになる。
名誉を持つものが、増え続けることで「圧迫感」が生まれるからである。
この圧迫感が「LIVゴルフ」を生み出したのか?
冒頭で述べた、民主主義のように、これらの名誉が守られ続けることは、
1つ、競争主義において新たな「新陳代謝」を抹殺する動きにも似た連動が起きてしまうからだ。
なので、それら「圧迫感」を感じたプレイヤーやスポンサー、あるいはレジェンド達が、
現状の歴史に対して、反発的に「闘争(独立)・逃走」を図る機会が目につくようになった。
その1つの例が、グレッグ・ノーマンが主催するLIVゴルフツアーのような独立的な思想である。
LIVゴルフは「はじまり」一部の興行にしか過ぎない
もっと細かいところでいうと、既存プロゴルファーが生み出す「なんとか理論」や
「なんとか協会」、「なんとかツアー」である。
それらが出現した理由は、民主制そのものが、履き違えられた、あるいは衰退したからではないと思う。
どちらかというと、時代に民主主義がついてこれなくなったというべきだろう。
これら兆候は、ゴルフ界だけではない
SNSが普及したことで、
さらに排他的な組織(オンラインサロンやメンバーシップ、サブスク)が独自で、構築可能になり、
ゴルフに限らず、あらゆるスポーツ、教育、ビジネス、趣味、サブカルチャー的なものまで
コンテンツが、無限大に拡大したと言える。
しかし、本当にこのような手立てを加速させ、勃興させることが、
今後の未来のゴルフスポーツや他競技に反映をもたらすのであろうか?
否、私はそうは思わない。
原点回帰するべき時期
もう一度、「事の起こり」根幹の部分を見直してみよう。
冒頭に述べたように、「なぜ、資本主義(競争社会)において、民主主義が主張され続けてきたのか?」
「答え」はそこにあるような気がする。
それは、ゴール地点ではなく、スタート地点の定義のような気がする。
要は、これまで話したように競争後の民主制(平等)ではなく、
競争前の民主制(平等)を唱えることがもっとも望ましい光景ではないだろうか?
具体的な姿勢とは?
仮に、ゴルフスポーツで、それを体現するのであれば、
ゴルフに「体育的な要素」を持たせること、
つまり“教育内に浸透するような動き“が必要であるということだ。
少なくとも、野球やサッカー、陸上競技は、
小中学校の体育授業に通過する体験の場がある。
しかし、ゴルフに関しては「一般化されること」が非常に難しい。
ゴルフを「一般化」させるには?
過去の特殊な事例でいうと「坂田塾」が唯一、
一般的な「環境」をもたらそうとしたものではないだろうか?
だが、この坂田塾ですら、一般的(体育的)な普及には至らなかった。
それは、ゴルフスポーツの性質があまりにも「非日常」であったからだと思う。
ならば逆に、一般化されたスポーツからゴルフに結び付けるのはどうだろう?
要は、ゴルフスポーツの根源にある性質、
ゴルフクラブやボールの構造や動きを物理学に解釈したり、
身体と重力の関係性を説いていくようなことが実現できれば、
“一般化”の第一歩になり得るのではないだろうか?
それには、ゴルフを通じて「精神性や肉体的な健康」を向上できる、
あるいは維持できるといった、エビデンスを習得、認知していくことが入口になるような気がする。
今後プロゴルファーに求められる姿勢とは?
どちらかといえば、過去、栄冠を勝ち得たレジェンド達は、
この“一般化させること”に重きを置くべきではないだろうか?
少なくとも、現段階でLIVゴルフツアー反対派に位置するレジェンド達は、
このような構想と希望を持っているからこそ、反対の意思を示しているのではないか、と私は考えている。
繰返されてきた歴史
ゴルフの起源から創成期、競技化されて現代に至るまでの歴史は約700年、
ツアー興行など競技化の起源から現代までの歴史は、約150年になる。
最早、“ド派手な興行”を、さらに上乗せする必要性があるだろうか?
現ゴルファーのバイアスに翻弄されて、
現在の先進国と同じように衰退の一途を辿るのであれば、
今ある、レジェンド達が持つ影響力や金銭力を駆使して一般化(民主制)を確立するべきだと思う。
なぜなら現体制に闘争と逃走を繰返したところで、
結局、地球上で争い逃げる場所は限られている気がする。
で、あれば非日常的なゴルフスポーツを一般化し、
さらに、非日常的なゴルフの一部の思考力を「日常で活かせる道」を
模索していく方が、建設的な気がしてならない。
そうでなければ、いずれゴルファーの居場所は無くなりゾンビ化してしまう気がする。
「本来の在り方」ー健全化への道ー
本来の民主主義の在り方とは、権力者に「緊張」を与え、「質を維持する」ためのもの。
国家単位で言えばそれが選挙であるし、プロゴルファーで言えば、
シード権や、ランキングに位置するわけである。
これら「競争下」においても質を維持・保全するための思想であった。
また、その競争によって質が保全する前に、色々な考えを持つ人を受け入れる、参入できる、
そして共存できる、それら行為自体が尊いという発想である。
つまり、ゴルフであれば、1つの競争や1つの理論が「邪道である」とはじき出されて、
先程述べた、「一般化できない体制は良くない」ということだ。
あらゆる受け口、方向性が「認められ、いい意味で消化される」
そんな思想が本来の民主制であり、闘争や逃走を回避できる手段になりえると思う。
GTが追求する道も同じ
私たちゴルフターニングも、引き続き、技術的にも精神的にも、ゴルフを一般化し、
日常に帰属できるプラットホームの1つとして歩んでいきたいと切に思う。